海の近くに住んだら、いつでも海を見ながらビールが飲めるなあ。そんな思い付きでの引越しだったから、歩いて海に出られる以外の条件はほとんど全部妥協した。最大の難点は本棚を置くスペースがないことで、引越し前に本はできるだけ処分する羽目になった。荷ほどきをしてみれば、あの大型本はこの棚に置けたなあと悔やんだり、持ってきたはずの本が見つからなくて、無駄と知りつつもう一度探してみたり。しかしまさか、同じ本が二冊出てこようとは。
作家で、銀座でお弁当屋さんをやりたいと思うほど料理好きだった宇野千代。『私の作ったお惣菜』では故郷岩国の郷土料理やこの人らしい創作料理が紹介されていて、「春雨スープを出したら平林たい子はフカヒレスープと思い込んでいた」とか「東郷青児はライスカレーが好きだったから薬味を二十種類も作った」等々、昭和の著名人が登場するエピソードも楽しい。
それで若い頃の一時期、私はよくこの本を人にあげていた。最初は誰かから貰って、その貰った本を人にあげて、自分用に買い足して、それをまた誰かにあげる。そんなことを何度か繰り返すうちに、手元に二冊ある状態になっていたらしい。思えば、本が好きで食いしん坊の友人ばかりだった。
いつの忘年会だったか、この本に載っている「極道すきやき」を試したこともある。ブランデーと割下に漬けた肉を卵黄に絡めて焼くというシンプルなレシピで、ネギも春菊も豆腐も使わない。
このすきやきの特徴は、あの、素晴らしい肉の旨味だけを、純粋に堪能しよう、と言う訳なのですね。その場合には、葱や豆腐は、よけいなものなのです。贅沢と言えば、これ以上、贅沢なすきやきはありませんね。極道すきやきと名前をつけた私の気持が、誰にでも分からない筈がない、と私は思ったのです。
百グラム三千円くらいのできるだけ上等な肉を使います、でも、みなさんがお作りになる場合は千円くらいの牛肉でも良いと思いますよ。……上から目線の宇野千代に煽られて、肉の係を拝命した私はとにかく高い牛肉を求めてデパ地下の精肉店へ出向いた。そんな店で肉を買うのは初めてのことで、一番高い肉でも百グラム二千円くらいしかしないことに失望したものだ。
レシピに従って下拵えした肉を見て、誰かが「酒池肉林」と呟いた。鍋に広げると、じゅっという音と共にブランデーの匂いが部屋中に充満して、誰かがむせかえった。火がついたように笑いが弾けた。今にして思えば、けっこうな近所迷惑だったに違いない。
その忘年会から数年後、私はその友だち三人を三人それぞれに泣かせた。目の前で泣かれたこともあり、電話口で泣かれたこともある。その度に私は「泣きたいのはこっちのほうなんだけどな」と思いながらも、結局は泣かなかった。その後で長い手紙をくれた友だちもいて、私はそれに短い返事を書いたけれども、結局は渡さなかったような気もする。もう十年くらい経つだろうか。
引越し前の私は二回この本を手に取って、二回とも「捨てない」という選択をしたはずだ。楽しい思い出と苦い思い出と両方あるから、その選択が懐かしさのためだったか、後ろめたさのためだったか、正直よくわからない。あの頃近くに海があれば、海を見ながら一人でビールを飲んでいれば、誰かを泣かせたりしなくて済んだかもしれないなあと、ぼんやり考える。
二冊あるうちの一冊は、引越し先で仲良くなった人にあげた。本好きの料理人だ。もう一冊は、これを書き終わったら別の人にあげようと思う。それくらい、もう十分に楽しんだ。