私が高校生だった頃の国語の教科書は「現代文」と「古文・漢文」の二種類だった。それが二、三年前に大幅に改変されたらしい。
小説を読んで登場人物の心情を読み取るとか、そういう問題が解けても何の役にも立たなくない? もっと実用的な教育をしよう……国としてはどうやらそんなことを企図して「論理国語」だの「文学国語」だの、新たな科目を設置した。それに対して教育現場からは「漱石も鴎外も読ませないのかッ」と怒りの声が沸き、企業側からは「実用的な文章はAIでもできちゃうからな~」と困惑の声が囁かれているとか。
しかしまあ、科目名や教科書が変わろうが変わるまいが、高校の国語の授業なんてまともに聞いてる生徒のほうが珍しいんじゃないの、と私は思ってしまう。少なくとも高校生だった頃の私にとって、国語の授業は単に「読書の時間」だった。与えられた教科書にはざっと目を通したけれども、あとはその時々で読みたい本を読んで、それがなければ副読本の「便覧」を眺めて過ごした。
便覧には動植物の写真とか宮廷の模式図や衣装、年表、地図、家系図等々がフルカラーで載っている。近現代の文学者についても写真やエピソードを交えて紹介されていて、教科書よりずっとおもしろかった。おもしろいばかりでなく、慣用句や四字熟語や故事成語の解説もあり、手紙に添える時候の挨拶やレポート・小論文の構成まで網羅されていて、意外と実用的だ。
当時の編著者の方々に(もしくは今そういう仕事にあたっておられる方々に)伝えたいのは、じつはこの「国語便覧」、私は今も活用している。おもしろそうと思って手に取ったけど難しくて理解できない本に出会ったときに、何かと便利なのだ。
たとえば最近は「国語便覧」を片手に武田泰淳の『司馬遷』を読んでいる。司馬遷といえば中国前漢時代の歴史家で、その「史記」といえば現代日本語訳の文庫版で全八巻くらいの大作だ。それを対象とした武田泰淳の評論は、文庫一冊とはいえ中身は壮大で、私のような門外漢には敷居が高い。でも「国語便覧」の年表や地図、人物相関図を眺めながらだったら、どうにかついていける(気がする)。
じつは学生時代に一度読んだことがある。そのときの感想は、「わからないのにおもしろい。おもしろいのにわからない」。いつか「史記」を読めばわかるだろうかと思いつつ、大作古典文学に臆して手が出なかった。どうしておもしろいと思ったんだろう? たとえば以下。
史記的世界は要するに困った世界である。世界を司馬遷のように考えるのは、困ったことである。ことに世界の中心を信じられぬ点、現代日本人と全く対立する。中心を信じるか、信じないか、これで両者永久に相遭えぬこととなる。日本は世界の中心なりと信じている日本人、かつその持続を信じている日本人からすれば、武帝を信じられぬ司馬遷如きは、不忠きわまりない。宮刑では足りぬ、死刑に処しても良いのである。(「Ⅴ 結語」より)
『司馬遷』の出版は昭和十七年、つまり上記引用中の「現代日本人」とは戦争真っ只中の日本人のことだ。日中戦争に従軍した武田泰淳は、戦地で「史記」のことを考えている。歴史を記すことによって時の絶対者(司馬遷の時代には漢の武帝、武田泰淳の時代には大日本帝国)を相対化した司馬遷に思いを馳せている。
宮刑(去勢)によって辱められた司馬遷を、冒頭では「生き恥さらした男である」、結語では「死刑に処しても良い」。学生時代の私は、「史記的世界」とは何であるかは理解できなくとも、武田泰淳の言葉が敬愛から発せられていることは理解できた。それがおもしろかったのだ。
便覧片手に再読してみると、武田泰淳がまず「史記」の構成に着目していること、構成を意識して読みなさいと言っていることはわかる。帝王の記録を時系列で記した「本紀」12篇、有力者を一族ごとに記した「世家」30篇、歴史的事実を分類した「表」10篇、思想家から暗殺者まで異能の人々を記した「列伝」70篇。
正直、王とか諸侯一族よりいろんな身分の人がたくさん出てくる「列伝」がおもしろそうだ。でも、泰淳によると「本紀」は太陽で、「列伝」はその周囲を運行する遊星らしい。太陽は宇宙の大きさを示し、遊星群は天体図を示す……となると、やっぱり「本紀」から読まないとマズイかな。読みたい本は他にもあるけど、ためしに「本紀」の一巻だけ、便覧片手に読めるかどうか、大きな本屋で探して立ち読みしてみようかなあ。
ちなみに『司馬遷』を再読しようと思ったのは、村上春樹さんの短編集『一人称単数』からの連想だ。──中心がいくつもあって、しかも外周を持たない円を、思い描く──というフレーズが妙に頭に残って、ふと「その円ってたとえば武田泰淳が書いてたことだったりするか?」と思いついたのだ。少なくとも「史記的世界」では、太陽が誕生と死滅を繰り返し、その周囲には無数の遊星群が広がっている(らしい)。
今はわからなくても、いつかわかるかもしれないし。わからなくても、おもしろいなら読んでみればいい。高校を卒業して四半世紀経つけど、「読書の時間」は今も続いている。