ライターズブルース

読むことと、書くこと

一途にはなれない

『吉兆味ばなし』/湯木貞一/暮らしの手帖社/昭和57年〜平成4年刊

 某城下町に知る人ぞ知る割烹の名店があるとの案内を得て、ついて行ってみると期待を上回るとてもおいしいお店だった。案内をしてくれた人に、『吉兆味ばなし』の世界だと思いました、と感想を伝えると、二、三秒の間をおいてこんな応えが返ってきた。

「その本は読んでないけど、それは違うと思う」

 そうか。たしかに違うかもしれない。吉兆といえば高級懐石の代名詞的存在で、大阪、京都、東京にいくつも店を構える一大グループ会社でもある。方やその割烹料理店は、おかみさんが一人で切り盛りするカウンターだけの小さなお店だ。規模も違えば、お料理の形式も違う。せっかく連れていってもらったのに的外れな感想を口走って、申し訳ないような、恥ずかしいような。しかしその一方で、あの本を思い出した事実は事実として否定はできない。何がどうつながって思い出したんだろう。

 自分の頭の混線をほぐそうと本を開いてみると、たとえばこんな箇所が目に留まる。

お客さんにかわいがってもらわなければ、とおもって、ちょっと派手にものを食べたお客さんがあると、たとえば、鯛のいもかけもほしい、鮎の大きいの焼いてくれとか、目玉料理をつぎつぎにたべてくださるお客さんが、お帰りになると、何度あとを追いかけていきたい、とおもったかしれません。お客といっても、よばれた方が、おいしかったといわれても、それにはお愛想が入っています、ほんとうにお金を払って下さった人でないと、おいしかった値打がどうかわかりませんから、それで追いかけて行って、ほんとにどうでした、とたずねたいなあとおもったことでした。

 吉兆創業者の湯木貞一が初めて自分の店を構えたときの回想譚だ。私が某城下町の割烹のおかみさんから連想したのは、この一途さだったかと思う。

 たとえば私が刺身のツマも海老の尻尾も平らげると、空いた器を下げるときにおかみさんの口元がほんの少し綻ぶ。そういうことを何度か繰り返すうち、ぱちっと目が合う。その回数が増えていく。地元の名士と呼ばれるお客さんたちから、おいしいおいしいと言われ続けてきた腕前をもって、それでもなお、一見の若輩に過ぎない私がお料理をどう食べるかを真剣に見守っている気配があった。

「お客さんの顔がぱっと浮かぶんです。それで、ああ、あれも食べさせたい、これも食べさせたいって思うんです」

 奥の席の常連さんに仕入れについて質問されると、弾んだ口調でそう答えていた。

『吉兆味ばなし』は雑誌「暮らしの手帖」の長寿連載の単行本。「日本の家庭料理を守る主婦の方に向けて、何かのお役に立てば」という趣旨で、季節ごとのお献立の考え方や素材の扱い、だしの取り方や調理道具、あれこれ惜しげもなく語られている。大して料理もしない私がなぜこんな立派な本を持っていたかというと、その昔、ある料理人へのインタビュー記事を請け負った際に「座右の書」として指定され、資料として買い揃えたのだった。読み物としておもしろいことに加えて花森安治による装丁も麗しく、その仕事を終えた後も蔵書として手元に置いていた。

 しかし、引越しから数ヶ月経って本を荷ほどきしてみると、全四巻中、四巻しかないことに気がついた。段ボールをすべて空けても一巻から三巻が見つからず、どうやら古書店に引き渡してしまったらしい。A5版ハードカバー函入四冊のボリュームに怖気づいて、この際だからと思い切ったことは覚えている。でも良い本なんだよなあ、と思い直したことも。それにしても、なぜ四巻だけが。引越し前の混乱が悪夢のように思い出される。

 某城下町の割烹店を訪れたことをきっかけに、ついに一巻から三巻を買い直した。一途とはほど遠い何かを誤魔化すようで、後ろめたいような、恥ずかしいような。

(註:「吉」の字は、正しくは「土」に「口」)

一巻についてはソフトカバーの廉価版もあり。版元のセンスと良心を感じる。