ライターズブルース

読むことと、書くこと

会社員たちへ

『男たちへ フツウの男をフツウでない男にするための54章』/塩野七生/文春文庫/1993年刊

 塩野七生さんの『男たちへ』のようなコラムを書きませんか、と言われたことがある。もう二十年近く前の話だ。駆け出しのフリーライターにとって原稿の依頼は何でもありがたい。しかし、実際にその本を手に取ってみて大いに困惑した。「フツウの男をフツウでない男にするための54章」というのがそのサブタイトルで、言ってみれば男性論。二十代前半の小娘の書く男性論を、読みたいですか? 私はあんまり、読みたいと思わないなあ。

 なんて思ったことを正直に言っていたのでは仕事にならない。代替案にごにょごにょと言い訳を添えて、なんとかその場を凌いだ(どんな代替案だったかは忘れてしまった)。

 相手は当時の私よりは年上の、しかし今の私よりは若い女性編集者だった。明確な意図があってというよりは、たまたまそういう企画を思いついたときに、たまたま私が目に留まったんだろう。今となっては「なぜ私に?」というあのときの疑問に明確な答えがないことくらいは承知している。ただ、年齢を言い訳の筆頭に挙げたことを思い出すと、では二十年近く経った今なら男性論が書けるのか、どうなんだろうかと、つい考えてしまう。

 私は、テレビ・ニュースを見ているとき、アメリカとソ連の戦力削減交渉の場が写し出されると、ひどく熱心に見たものだった。(中略)その場にいたアメリカの首席代表の、エミッツだったか、まあそんなふうな名の男だったが、ついこの間まで首席をつとめていたその男が、大好きだったからである。
 年齢は、八十歳を越えているのだそうだ。だけど、ステキな男だった。眼がいい。じっと相手の眼をみつめて、動かない。
 また、話し方がいい。静かで落ちついた話し方をする。それも、抑えた声で。
 そして、最もイイ点は、笑い顔を安売りしないことだった。笑い顔を安売りする男には、政治家であろうと財界人であろうと、また俳優であろうと、私は食傷気味なのです。
 この人を笑わせてみたい、と私などは思う。八十歳だろうが、そんなことはまったく関係ない。(「第43章 男が上手に年をとるために」より)

 男の色気について。男のロマンについて。不幸な男について。成功する男について。独断も偏見も上等、爽快な男性論だ。大著『ローマ人の物語』をものした人だから、マキャベリダヴィンチといった歴史上の人物も登場するけれども、私はどちらかというと、テレビに映る政治家とか少女時代からファンだった映画俳優を俎上に載せて、その魅力をダーッと語るくだりが好きだ。妙な説得力がある。

 でも、「フツウの男」にはあまり参考にならないかもしれないなあ、とも思う(もちろん、別に参考にしなくても読んでおもしろければ十分だけど)。日本の社会で「フツウの男」と言えば、まず会社員だろう。著者の好みを要約すると「スタイルのある男」ということになる。自分のスタイルというものを醸している会社員を、私はうまくイメージすることができないのだ。

 スタイルがあるとはどういうことか。本書によると、第一に「年齢、性別、社会的地位、経済状態などから、完全に自由であること」。第二に「倫理、常識などからも自由であること」。以下は省略するけれども、やっぱり会社員には、なかなか難しいのではないか?

 

 私の見知った人で、当てはまるとすれば、転職して最初に入った会社のO専務かもしれない。大手出版社で編集長を勤めあげた後、複数の子会社で役員をしていた人で、私は下っ端の事務員として伝票を作って専務(と社長)にハンコをもらっていた。同じような業務をその後いくつかの会社ですることになったけれども、一番仕事がしやすかったのは間違いなくO専務だ。

 月に何度かある「ハンコ押し」のタイミングを把握していて、出張や休暇の予定が決まると「○日から○日までいないよ?」と念押ししてくれる。ほとんど流れ作業のようにハンコを押しながら、たまに発生するイレギュラーな伝票では手を止めて「これ何?」と聞いてくる。世間話や冗談で適度にコミュニケーションをとりつつ、馴れあう隙は見せない。人目を引く美男ではないがポロシャツやダッフルコートがよく似合っていた。

 O専務を「スタイルのある会社員(会社役員)」のモデルとして仮定すると、その条件とはどんなものだろうか。塩野先生に倣って、独断と偏見で書き出してみると……。

 第一に、自分の価値観と他人の価値観の区別がつくこと。この区別がつかない人には、会社の人間関係が一種のロールプレイであることを理解できない。いわゆるパワハラとかセクハラも、根っこにあるのは価値観の押し付けなんじゃないだろうか。

 第二に、わからないことをわからないと言えること。これができないと、不確かな認識に基づいて不確かな判断を下すことになる。年齢や役職に反比例して、できなくなっていく人が多いようだ。

 第三に、自分の属している会社を適度に好きでいること。O専務の場合、たとえば私が親会社のことを褒めると(書類を返してくれるのが早いとか、担当者が親切だとか)、親戚の子どもを褒められたみたいにはにかむ。愛社精神というものは、ほとばしるよりは滲みでるくらいがちょうど良いと思う。

 ……しかしまあ、これでは男性論にならない。強いて言えば会社員論か。若かりし日に「男性論を書け」との依頼に正面から取り組めなかったのは、年齢の問題ではなく、やっぱり資質の問題だったんだな。情けない言い訳をしてしまったものだと、いまさらながら恥ずかしい。

初出は1980年代の『花椿』。資生堂の広報誌でこういう連載があったというのは、バブル全盛期の果実という感じがする。

プロとアマチュアと、それ以外

『波止場日記 労働と思索』/エリック・ホッファー/田中淳・訳/みすず書房/1971年刊

 肉体労働とか頭脳労働という言い方になぞらえて、自分は感情の労働者だ、と思っていた時期がある。たとえばある人物のインタビュー記事を引きうけると、その人の著書や過去の関連記事を読んで「ポイント」を探す。どんなに小さくてもいいから、好奇心や共感を寄せられるポイントを見つけて、それをできるだけ増幅させる。その人物に対面したときに「会えて嬉しい」「話を聞きたい」、そういう気持ちがなるべく自然に出てくるように自分で自分を仕向ける。増幅させた感情は、記事を書き終えるとほとんど同時に消え失せる。

 取材対象は人物に限らず、店とかイベントとかその時々で色々だったけれども、ほとんど無意識的にそんなやり方をしていた。当時の私の基本的な考えとして、原稿料をもらって文章を書くなら、読んだ人の心を動かす文章でなければならない。そのためには、まずは自分の心を動かさないと始まらない。深い知識とか特別な閃きとか、そういうものは自分にはないから、売り物になるとしたら心の動きだけだ、と思っていた。

 誰に教わったのでもないその「やり方」が正しかったか間違っていたか、フリーライターという職種としては、おそらく間違っていたんだろう。三十をいくつか過ぎた頃、いろんな物事に対して心があまり動かなくなった。映画やドラマを見てもおもしろくない。本を読んでも集中できない。人と会っても心から楽しむことができない。伸び切ったゴムみたいなもので、特に困ったのは、自分の書く原稿に以前のような興味や執着を感じられなくなったことだった。原稿料さえもらえれば出来も不出来もどうでもいい……そうなることが怖くて、そうなる前に他の仕事をすることにした。

七月一日
 第三十四埠頭、フライング・エンタプライズ号、九時間。忙しい一日。だが不愉快ではなかった。仕事は絶え間なかったが、せきたてられはしなかった。
 近ごろ朝晩は冷えて雨がちだが、昼近くになると暖かい陽がさしてくる。ドックの後方の広い開口部から見える湾の景色がオトギの国のようだった。外の景色は窓からは部屋に入ってこれず、ドアからだけ入ってくる。
 休みをとってもほとんどなにもできない私は、文筆家としては失格である。たしかに、ときには独創的な考えが浮かぶこともある。そして一心不乱に考えれば、最後には何とか二~三〇〇〇語の文章を組み立てることもできる。しかしそれには一年という歳月がかかるかもしれない。いつもいちばん重要な言葉がすぐに浮んでこない。そのつどあらたに探し出さなければならない。

 エリック・ホッファーは文筆家としてプロになることを選ばなかった、そのために「異色の哲学者」として名前を残した人だ。最初に本を出したのは49歳のときで、二冊目、三冊目を出版しながら、65歳まで港で働き続けた。大学の仕事にも誘われて、執筆に専念することもできたはずなのに、そうはしなかった。

『波止場日記 労働と思索』はタイトルどおり、サンフランシスコ港における日々の労働と思索についての日記だ。その日の船荷のこと、離れて暮らす息子のこと、本の感想など。雑多な題材のなかで、私が親しみを覚えるのは学者や作家、いわば「自称・知識人」への懐疑だ。たとえば「ただ単に書くという習慣からぶあつな本が無数に生れるのを考えるとぞっとする」……。港湾労働者として働きながら文章を書くことは、彼にとって自然なことだったんだろう。哲学者という言葉は職業ではなく、肩書きでもなく、生き方を指すんだな、こういう生き方もあるんだなと思う。

 良い文章を書きたかったからフリーライターは廃業しました、と人に言ったことはない(たぶんないと思う)。どうも言い訳としてバカバカし過ぎる気がするけれど、白状してしまえば、その当時はそんな心境だった。

 プロとして書き続けることと、良い文章を書くことが、自分の中で二律背反してしまったのは、どういう経緯だったんだろう? 力不足の一語で片付けるのではなく、いずれ整理して書きたいとは思うけれども、書けるだろうか? 「とにかく、書くべきものであるなら書かねばならない」とホッファーは言っている。私は、書けることと書けないことの境界線上でいまだに足踏みしている。

原題は“WORKING AND THINKING ON THE WATERFRONT”。ちょっと、かっこよすぎると思う。

(お知らせとあいさつ)

 諸事情により今週の「捨てられない本」はお休みします。諸事情というか、エリック・ホッファー『波止場日記』と武田泰淳『富士』で迷って決められなかったのが理由。あと、年末だから。

 引越しを機に収納しきれない本を手放したのがきっかけで始めたブログですが、本の他にもう一つ困ったのが食器の収納でした。シンク下にどうにか納めたものの、そこには入れておきたくない器がいくつかあって。「壁につけられる棚」というのを設置して、普段は吉田明さんのぐい呑みを三つ、飾っています。年末の挨拶がわりにその写真を。

 読んでくださっている方、どうもありがとう。どうぞ良いお年を。



 

無邪気な大人たちへ

『さむがりやのサンタ』/レイモンド・ブリッグズ/訳・すがはらひろくに/福音館書店/1974年刊

 何歳までサンタクロースを信じていたか、みたいな話になると、どうも困ってしまう。私には、サンタクロースが架空の人物だと知ってショックを受けた覚えがない。たぶん小学校に入る前だったと思う、ピンポンとチャイムが鳴って玄関に出てみると、あの格好をした人が立っていた。すぐに近所の子ども会の「ささきのおっちゃん」だとわかって、ホッとした。知ってる人だったからホッとしたのだ。「サンタクロースを信じている子ども」だったら、ガッカリしたんじゃないだろうか。

 そもそも、”ママがサンタにキスをした”というクリスマスソングで「そのサンタは、パパ」って歌ってるし。上に兄と姉がいたからかもしれないけど、私はどちらかというと最初から「そういうもの」として受けとめていた気がするなあ。……そんな風に話すと、だいたい不評を買う。特に小さい子どものいる人には「えー、世の中にそんな子どもいるの」みたいに言われてしまう。私には「サンタを信じる無邪気な子ども」というイメージこそが、無邪気な大人の幻想なんじゃないかと思えて仕方ないのだけど、今のところ共感を得られた試しがない。

 

 でも、『さむがりやのサンタ』という絵本は好きだった。手元の一冊は、もともと実家のリビングの本棚に挿さっていたものだ。三人の子どもが大きくなって、誰も開くことのなくなったこの絵本を、いつからか私は自室に隠匿した。一人暮らしを始めるときには、家族の誰にも断らず持ち去り、去年引越しをしたときも、特に考えることなく新居に持ち込んだ。奥付を見ると1978年第七刷。私は80年生まれだから、一番付き合いの長い本であることは間違いない。

 マンガのようにコマ割があって、朝一番、パジャマにガウン姿でお茶を淹れて「おいしいこうちゃがなによりだ」というコマは、母のお気に入りだった。着替えをして、トナカイにご飯をあげて……という具合に一日が始まって、ソリに乗って出かけて、例の仕事をして帰ってきて、お風呂に入ってご飯を食べて……という具合に一日が終わる。私は、明け方に牛乳配達の人とすれ違って「まだおわらないのかい」「ほとんどすんじまったよ」と交わす場面が好きだった。

 久しぶりに開いてみて笑ってしまったのは、最後の一コマだ。水色の縞模様のパジャマを着たサンタクロースが、ベッドのなかからこちらを向いて一言。

「ま、おまえさんもたのしいクリスマスをむかえるこったね」

 私は大人になった今でも、こういう話が大好きなのだ。作りものの世界の一箇所に裂け目が入っていて、あちら側とこちら側がふわっとつながっているような”おはなし”が。

 

 数年前、甥っ子がまだ小さい頃、『さむがりやのサンタ』を探したのに見つからなかった、という話を姉から聞いたときはギクリとした。私が持ち去ったことを白状して謝ると、新しいの買ったからいいよと許してくれた。

 表紙も中身もシミだらけ、剥がれた頁をセロテープで留めた箇所もある。持っていた他の絵本は甥っ子にあげたのに、これだけ例外としたのは、第一に汚かったからだ。でも、それだけが理由ではなかったんだろうな、きっと。

 確かな記憶はないけれども、私はたぶん、この本でいくつかの文字を覚えたんだと思う。というのも、文字のほとんどがフキダシのセリフだから、いわゆる絵本の文章と比べて格段に判読しやすい。母親や幼稚園の先生に読んでもらうのではなく自分で本を読むことを覚えた、あちら側の世界とこちら側の世界を行き来するおもしろさを初めて味わった。もしそうだとすると……。

 私は「そういうもの」としてのサンタクロースから、わりと素敵な贈り物をもらったことになるんじゃないだろうか。彼の実在を信じる無邪気な子どもではなかったために。そんな子どももいるんだよ、と小さな声で言っておきたい。

もし本当にサンタクロースがいるなら。ウクライナパレスチナの子どもたちに何か届けてほしいと思う。

 

小説の定義について

『雑文集』/村上春樹/新潮文庫/平成27年刊

 フリーライターをしていた頃、私の書いたものを読んで「小説を書いたら」と言う人がたまにいた。そういう人はおそらく小説という形式を文章表現の最上位と捉えていて、「あなたにはそれが書けるよ」という褒め言葉として言ってくれたんだと思う。それを真に受けて小説を書いたり、どこかの編集部に持ち込もうとか新人賞に応募しようとか、そういう野心も余裕も私にはなかった。それに、小説だろうとエッセイだろうと、日記だろうと何だろうと、おもしろいものはおもしろいし、つまらないものはつまらない。形式は別は何でもいいじゃないかと思っていた。

 だから、ある文芸誌で小説家ではない人に小説を書かせる特集を組むとのことで依頼が来たときは、いつものクセで深く考えず引き受けてしまった。結果は散々で、小説を書こう、小説にしようと思って手を加えれば加えるほど、そこから遠ざかっていくように感じた。

 当時は依頼があれば大概引き受けた、自分に書けるか書けないかなんていちいち考えなかったから、出来のいい原稿もあれば不出来な原稿もある。それはもう、そういう仕事なんだと割り切っていた。でもあの原稿だけは、今でも、思い出せば原稿料をもらったことが恥ずかしくなる。

 小説って、何なんだろうなあ。

 村上春樹さんがジャズについて書いたエッセイを読んだときも、そんなことを考えるともなく考えた。和田誠さんと一緒に選曲したコンピレーションCDのライナーノーツに掲載されていたエッセイで、CDは人の家に置いてきてしまって手元にないけれども、文庫本『雑文集』にほぼ同じ文章が収められている。

 ジャズってどんな音楽ですか、という質問への答えを探す形で、ジャズバーを経営していた頃の思い出が綴られていく。店には基地のアメリカ兵がたまにやってきた。そのなかの一人は何度かビリー・ホリデイをリクエストした。彼は日本人の女性と一緒で、二人は友達とも恋人ともわからない、見ていて気持ちの良い距離感で酒を飲んでいた。

 僕は今でも、ビリー・ホリデイの歌を聴くたびに、あの物静かな黒人兵のことをよく思い出す。遠く離れた土地のことを思いながら、カウンターの端っこで声を出さずにすすり泣いていた男のことを。その前で静かに融けていったオンザロックの氷のことを。それから、遠くに去っていった彼のためにビリー・ホリデイのレコードを聴きに来てくれた女性のことを。彼女のレインコートの匂いを。そして必要以上に若くて、必要以上に内気で、そのくせ恐れというものを知らず、人の心に何かを届かせるための正しい言葉をどうしても見つけることができなかった、ほとんどどうしようもない僕自身のことを。(「ビリー・ホリデイの話」より)

 そして「こういうことがジャズなんだ、そうとしか答えられない」と締めくくる。

 このエッセイから(もしくはジャズという音楽から)、孤独という言葉を連想するのは私だけだろうか? 孤独という言葉を使わずに孤独を表している、少なくとも私はそう感じた。

 昔お世話になっていた先生は、小説と批評の違いについてこんなことを言っていた、「的を射抜くのが批評。小説は、読者に的を射させないといけない」と。このエッセイは、まさに読者に(私に)孤独という的を射させている(もちろん的外れの可能性もあるけど、とりあえず的は的だ)。そして、これは小説ではない。だからつい考えてしまうのだ、小説って何なんだろうなあと。

『雑文集』にはエッセイのほかにも、受賞の挨拶とか結婚式の祝電、他の作家の文庫に寄せた解説など、さまざまな文章が掲載されている。わりとどれも、正直さを感じさせる文章だ。村上春樹さんのいくつかの長編小説と比較してみると、もしかすると小説って「正直な人がなるべく正直に書いた作り話」なのかもしれないなあと思う。

 とりとめのない思いつき、検証しようのない仮説だ。でも、あのとき(あの恥ずかしい原稿を書いてしまったとき)のことを思い出すと、どうせ小説なんて書けやしないんだから、小説じゃなくてもいいからせめて、もう少し正直に書けばよかった、とは思う。

各章の扉絵は和田誠さんと安西水丸さん。巻末には二人の対談も載っている。豪華だ。

 

昔の話と、もっと昔の話

『波うつ土地・芻狗』/富岡多惠子/講談社文芸文庫/1988年刊

 本を読むことはどこまでも個人的な行為だから、自分以外の誰かに本を勧めることは難しい。その逆も然りで、誰かに勧められたものを読むときも、過剰な期待は相手にも自分にもしないようにしている。かなりの例外として舌を巻いた(つまり、ピッタリとそのときの自分の好みだった)のが富岡多恵子の小説で、勧めてくれたのは大学の先生だった。

 文芸評論の分野で仕事をしていた人だから、参照されるライブラリが豊富だったことはもちろんだと思う。加えて、私はその先生のゼミでコラムや小説を書いて提出していたから、読書傾向は把握しやすかったはずだ。しかし、それにしても……。

富岡多恵子、おもしろかったです」

 私が仏頂面で感想を告げると、先生はフンと鼻から息をして言った。

「そう? それはよかった」

 見透かされたような気持ちで、私は少し口惜しかったし、その分だけ先生は得意気に見えた。20年以上前のことだ。 

 この小説のどこがそんなに、グッと来たんだろう? 改めて頁を開くと、あ、ここだ、それにここも、と思う。たとえば冒頭、ドライブに出かけた男女の会話。

「いやあ、ぼくは出ていったらいつ帰るかわからないから、うちのはさっさとメシ食っていますよ」
「そうですか、それなら休んでいきましょう。でも、わたしは若い女性とはちがいますからコーヒーを飲むだけじゃなく、ちゃんとモーテルへいこうといっているんですよ」
「ご主人が心配しますよ」
「わたしの夫が心配するかどうか心配するのはわたしで、あなたは関係ありませんけどね」
 クルマはくる時とは別の道をいくようだった。(『波うつ土地』より)

 いわゆる不倫とかいわゆる情事とか、そういう湿度がまったくない。エロスもロマンスも何もない、どこまでも乾いているところが良い。自動車を「クルマ」、恋愛を「レンアイ」と書く、カタカナの使い方も読んでいて気持ちよかった。そしてその乾いたテキストから不意に濃密な一滴がこぼれる。「わたしは、『ただ、たんに生きている』と思っている。できることなら、もっともっと、『ただ、たんに生きている』状態になりたいと思っている」……女の色気ではない、いきものの色気だと、そんな風に思ってこの頁のスミを折ったのを思い出す。

 こういう小説を、二十歳を少し過ぎた小娘に勧めた先生は、その本性を見透かしていたはずではなかったか? それとも、それは本性ではなく歳とともに変わる一過性の傾向に見えたのだろうか?

 というのも、後年になって先生は私にある種の湿度を要求した。少なくとも私は期待されているように感じた。

「時間の問題だと思いますけど」

 乾いた気持ちで口走ると、先生はぎょっとしたような顔で聞き返した。

「何が」

 始まるのも終わるのも時間の問題だと思いますけど、それでも始めますか。アーソーですか。……小説に出てきたカタカナのフレーズを、私は心の中で反芻した。それももう10年以上前のことだ。

 富岡多恵子を勧められたこと、その後に起きたことをつらつら思い出すと、やっぱり、人に本を勧めるのは難しいと思う。たぶん、特に小説は。勧めてもハズれるのが大概だし、万一的中したなら、それはそれで厄介だ。期待し過ぎてはいけないのだ、相手にも自分にも。

今年4月に他界。いろんなジャンルで活躍した人で、作詞・富岡多恵子、作曲・坂本龍一のCDもある。

意味とモラル

『夜と霧 ドイツ強制収容所の体験記録』/ヴィクトール・E・フランクル/霜山徳爾訳/みすず書房/1961年刊
『夜と霧 新版』/ヴィクトール・E・フランクル/池田香代子訳/みすず書房/2002年刊

 新型コロナウィルス感染症が蔓延して、政府が初めて緊急事態宣言なるものを発令した直後のことだった。マスクや消毒液に加えて食料品も品薄になり、ネット上ではトイレットペーパーが転売されていた。

「いいこと思いついた」

 当時の上司が突然そう言って、オフィスから出ていくと、両手にトイレットペーパーを抱えて戻ってきた。

「やった、やった。これでしばらくはもつでしょ」

 還暦を過ぎた人のはしゃぐ声を背中に聞きながら、私は自分の顔が歪んでいくのを感じた。こういう上司の下で働いていることに、瞬間的にうんざりしてしまったのだ。どれだけトイレットペーパーに困っていたか知らないけど、れっきとした窃盗だ。そんなに嬉しそうに、楽しそうにしないでほしい。せめて部下に見えないところでやってほしいと。

 ……思い出してみると、あんな些細なことで何をそれほど苛立っていたのかと思う。でも、あの頃はその些細なイライラが積み重なっていた。モラルがない! 心の中でそう叫んで、無性に読みたくなったのが『夜と霧』だった。

強制収容所における一心理学者の体験」というのがドイツ語原題の直訳だそうで、学生の頃、講義テキストの一つとして読んだのが最初だった。第二次世界大戦下で起きたユダヤ人の虐殺。強制収容所の中で行われていたこと。徹底的に自由を奪われて、死の間際に追い詰められたときに、人間らしい行動をとる人と、そうでない人の違いって何だろう? 自分は、どこまでモラルを保てるだろうか。……そんなことを考えた覚えがある。

 学生の頃に私が手に取ったのは霜山徳爾さんの訳(以下、旧版)で、ほどなくして新版が出版された。旧版で満足していた私は、長らく新版を手に取ろうとはしてこなかったけれども。初めて、新版を読んでみようと思い立った。

 これらすべてのことから、われわれはこの地上には二つの人間の種族だけが存するのを学ぶのである。すなわち品位ある善意の人間とそうでない人間との「種族」である。そして二つの「種族」は一般的に拡がって、あらゆるグループの中に入り込み潜んでいるのである。専ら前者だけ、あるいは後者だけからなるグループというのは存しないのである。この意味で如何なるグループも「純血」ではない……だから看視兵の中には若干の善意の人間もいたのである。(旧版「九 深き淵より」より)

 こうしたことから、わたしたちは学ぶのだ。この世にはふたつの人間の種族がいる、いや、そのふたつの種族しかいない、まともな人間とまともではない人間と、ということを。このふたつの「種族」はどこにでもいる。どんな集団にも入りこみ、紛れこんでいる。まともな人間だけの集団も、まともではない人間だけの集団もない。したがってどんな集団も「純血」ではない。監視者のなかにも、まともな人間はいたのだから。(新版「収容所監視者の心理」より)

 読み比べを試みて知ったのは、原書自体、1977年に新版が刊行されていたことだった。つまり単なる旧訳、新訳ではない。新版訳者の池田香代子さんは、パレスチナの地で戦闘が繰り返されていることを指摘し、加筆・編集に至った著者の思いを以下のように分析している。本書が「世界の人びとにたいしてイスラエル建国神話をイデオロギーないし心情の面から支えていた、という事情を、フランクルは複雑な思いで見ていたのではないだろうか」。

 ドイツ語を勉強していない私は、オリジナル・テキストの違いと、訳者によって生じた違いを区別することはできなかったが、パレスチナが再び爆撃を受けている現在、新版を読んでおいてよかったと感じている。

 ああいうことがなければ、読もうとしなかったかもしれないな。パンデミックがなければ。上司がああいう人でなければ。私がイライラしていなければ。

 フランクル博士は言っている、「どんな困難にも、意味を見いだすことはできる」と。当時の私はそれができていなかった。「この上司のおかげで『夜と霧』の新版を読めたんだから」と思うことができていたら、もう少しおおらかな気持ちで彼女と接することができていた、少なくともその可能性はあったように思う。

私が気になった違いは「囚人(旧版)」と「被収容者(新版)」。原書で使われている単語が違うのだとしたら「訳者あとがき」で触れられていないのは不自然な気がするし、同じ単語だとしたら意訳し過ぎな気もする。結局わからない。