どうして私は本を買うんだろう、と思うことがある。
たとえばブックカフェで読みきれなかった本を持ってレジに向かうと、一緒にいた友人は読みかけの本を棚に戻していた。買わなくていいの? あ、そう。……貸してと言われて貸した本がなかなか返ってこない、まあ返ってこないかもと思いながら渡したから別にいいけど。……図書館で借りた料理の本を、会社の複合機で丸々一冊分コピーする人がいる。……なんで買わないんだろうという疑問は、なんで私は買うんだろうという自問に変わる。
読みたいから? 欲しいから? 好きだから? それはそうだ。でも動機はその時々で違う気もするし、結局はただの習慣に過ぎない気もして、自分でもよくわからない。
お金がたくさんあるわけじゃないから、なるべく慎重に買う。
たとえば『あたらしい家中華』は、電車で広告を見かけてから三、四ヶ月、ずっと気になっていた。いつ買ったか思い出せない調味料を引越しで大量に処分した私にとって、「豆板醤もオイスターソースもいりません」というコピーは見過ごせない。
しかし近所の本屋にはなかなか入ってこなかった。ネットで注文しようか、でも料理の本は実物を見ずに買うと失敗しがちだからなあ、と思い留まっていたのだ。年明けにたまたま友人の家で見せてもらうことができて、目次や本文のレイアウト、見やすさ開きやすさなどを確認してから、やっと注文した。
結果、掲載の七十八品中、今のところ十品くらい試して、うち半分はリピートしている。一番よく作るのは「白切鶏(茹で鶏)」。鶏もも肉を生姜と長ネギと一緒に五分茹でたら、あとは三十分以上放置するだけ。ほんとにこれでいいの? と不安になるくらい簡単で、しっかりおいしい。放置している間にタレや他のおかずを作れるし、茹で汁で米を炊いたりスープを作ったり、すばらしく合理的だ。
「葱油芋艿(里芋の葱油炒め)」は春先まで隔週ペースで作っていたし、最近は「涼拌青椒西紅柿(青唐辛子とトマトの冷菜)」をよく作る。そういえば先週作り置きした「開洋葱油拌麺(干し海老と葱油の和え麺)」のタレも、冷蔵庫にまだ二食分あるぞ、ムフフ。
という具合に活用して、1,500円(税別)の元は十分とれたと実感していた矢先、今度は『青椒肉絲の絲、麻婆豆腐の麻』という本をブックカフェで見つけた。中国語と中国料理にまつわるエッセイ集で、いわゆるレシピ本ではない。とはいえ読んでいるうちに食べたくなるし、作ってみたくなる。
少し迷ったけど、結局この本も買った。だって『あたらしい家中華』を見ながら青椒肉片を作ったばかりだったのだ。チンジャオローピェンとチンジャオロース、比べてみたいではないか。
日本では家中華の代名詞的存在の青椒肉絲。でも正直、材料の細切りが面倒だ。そんな時は青椒肉片の出番。「絲(細切り)」と「片(薄切り)」にするだけで、美味しさはそのままに、手間は激減する。(『あたらしい家中華』より)
せん切りを指す絲という漢字は、糸の旧字体ですが、ただの糸ではありません。これは絹糸の意味なのです。(中略)
丁寧に細く細く、同じ幅に切られた豚肉が、中華鍋の中で油をまとい、皿の上できらきら光る。その視覚的イメージが持てて初めて、この料理名が本当に理解できたと言えるでしょう。
(『青椒肉絲の絲、麻婆豆腐の麻』より)
さてさて、豚肉をなるべく細ーく、絹糸をイメージしながら切ってみた。実際にはどう見ても紐の太さだったけど。青椒肉片を作ったときと同じ要領で下味をつけて、ピーマンの細切りと炒め合わせる。……うーむ、チンジャオロースも捨てがたいなあ。時間があるときは肉絲、急いでいるときは肉片にすればいいわけね、なるほど、なるほど。おや、「熱拌蕎麦(麻辣まぜそば」も、どっちの本にも載ってるぞ。
そんなわけで、『青椒肉絲の絲、麻婆豆腐の麻』を読みながら料理をイメージして、『あたらしい家中華』で詳しいレシピを確認する、という読み方をしている。中国語で「肉」と言えば豚肉を指すとか、「末」「絲」「丁」「片」「塊」の文字は材料の切り方や大きさを表しているとか、「麺」はヌードルではなく小麦粉を指すとか。漢字の意味をいくつか知ると、四字熟語のように見えた中国語の料理名が、ちょっと身近に感じられる。中国名でイメージしながら作ったほうが、おいしく出来上がるような気がする。
付け加えると、『新しい家中華』は『土井善晴さんちの「名もないおかず』の手帖』と比べるのもおもしろい。材料と調味料と作り方がどちらもシンプルだから、中国の家庭料理と日本の家庭料理の共通点が見つかったり、それぞれの良さが見えてきたり。
本を買って手元においておくと、新しく買った本と比べて読むことができる。それも本を買う理由の一つなんだよなあ。誰に聞かれたわけでもないけれど。